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初めての絵本から平和を考える

りぷりんと北 齋藤幸男

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須藤 重・文
発行:講談社

私は8人兄弟の中の5番目の男児として生まれ、一番上の兄とは13歳違いの差が有り、その兄との面識は、たった1度だけと記憶している。

それは、昭和19年、小学校(当時は国民学校初等科)2年生に、進級したばかりの春の日、海軍少尉だった長兄が、戦場に向かう前の一時休暇で帰って来た。この一時休暇は、一晩限りの親兄弟との別れのセレモニーでもあった。

その後、横須賀から出港前に書いたであろう、遺書と思われる手紙が母親宛に来て、母は声出して泣いていた事が、今でも忘れず記憶に残っている。そして昭和19年10月25日、レティ冲海戦で重巡洋艦「鳥海」は、米軍の空爆と魚雷攻撃で撃沈され、長兄は艦ともに運命を共にして、帰らぬ人となった。

同年10月8日には、父は病死しており、その葬儀には、学徒兵だった三番目の兄が浜松から帰り、岩国航空隊員の次兄は、遅れて火葬場での収骨に間に合った。只、長兄だけは、父の葬儀には帰る事は無かった。その時、長兄は南太平洋で、厳しい戦いの渦中にあって、父の訃報など知る余地など無かったのである。

翌年(20年)の5月に長兄の戦死の公報が届き、市役所から母は“英霊”と書かれた紙切れの入った、白木の箱を胸に抱き帰って来た。「紙切れでも良い あんちゃんが帰って来たのだから」と母は云いながら、白木の箱を抱いたまま泣き崩れた。

その母も、疎開先の家の前で、5キロ先の飛行基地から、米軍機のグラマンを目掛けて、発射された機関砲が、敵機に命中せずに着弾爆発した弾丸の破片が、右大腿部に食い込み骨折負傷するという、大きな怪我を覆った。疎開先は農村部で在ったが、親戚の若いお嫁さんも、左腕をもぎ取られるという重大な負傷もあり、周りの田圃にも味方の打つ砲弾が着弾した、大きな破裂跡が数か所見られた。

この出来事は、終戦一週間前の事で、当時、村の学校に東京から病院が、疎開して来ていたので、応急手当てを受けた。六年生の姉と二人で、暑さ盛りの中、傷口の消毒に母をリャカーに乗せて、毎日の病院通いが暫く続いた。9月に入り二人の兄たちは、無事に帰還して、母も都会の大きな病院に入院となり、怪我の手当てを受け無事に家に戻ることが出来たが、その間、三歳の弟を流行り病で亡くした。

昭和20年8月15日の終戦の日から、一月も経ってから長兄が、横須賀で、下宿していたと云う下宿の女将さんから「預かっている遺品があるので、お返ししたい」と手紙が届き、次兄が受け取りに行き持ち帰った。遺品は大きなトランクで、軍服などが入って居たが、それと共に、一冊の絵本も入っていた。絵本は講談社の「安寿姫と厨子王丸」で、興味深く一気に読んだ記憶が有り、更に押し入れの奥に、同じ様な絵本が有った事を思い出し探しだすと、講談社の絵本、「宮本武蔵」「曽我兄弟」「花咲爺」「一寸法師」等の絵本が出て来たのであった。それらも長兄の遺品かと思われ、大事に読みほした。

それ以来、読書が好きになり、学校の図書室に入り浸り、他の子よりも、物知りだったことも有った。

これらの講談社の絵本は、昭和10年から12年にかけて、絵本の先駆けとして出版されたという。

そして年月を重ね、平成28年、発刊80年を記念して、絵本が復刊し、その絵本の原画展が、目白台の講談社の野間記念館で開催された。繊細に描かれた原画を見て居ると、幼い時の絵本の記憶が甦り、懐かしさがこみあがり満たされる。

初版の戦争時代から時を超えて、平和な時代に復刊された絵本に、特別な感情が湧くのも当然かと思われた。

そして今、絵本読み聞かせボランティア活動の原点は、長兄の遺品、トランクの中の絵本「安寿姫と厨子王丸」にあったと思われ、酷な戦争を子供の立場から経験し、戦後の平和な社会を生きのびた、90歳の私であり、戦後80年の平和な日々が有ったからこそ、今が有るのだとも云える。

そして、子ども達の10年、20年先、更にその先の未来の為に、絵本を通して呼びかけたい・・・・!!

平和の尊さを・・・欲張らず、脅さず、お互いに理解し合い、私達の命を未来に繋げようと・・・・!!



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